PHILOSOPHY

サスティナビリティと
鈴木エドワード建築設計事務所

サスティナビリティと鈴木エドワード建築設計事務所

鈴木エドワード建築設計事務所は1977年、渋谷区松濤の住宅の離れ応接室3坪からスタートしました。

Edwardは1971年米国のノートルダム大学を卒業しました。
卒業設計は「空飛ぶ家」でした。世界が土地を奪い合い、戦争を起こす現在を予見していたかのような、まさに「Only One Earth」をベースにした卓越したアイデアでありデザインでした。
ハーバード大学院進学の前の1972年(49年前)6月、「国際連合人間環境会議」がストックホルムで開催されました。今日に至るまで解決への道がまだ見えない環境問題についての世界で初めての大規模な政府間会合でした。
「Only One Earth(かけがえのない地球)」がキャッチフレーズでした。
この社会課題に、日本で一番早くに反応し、環境保護運動を開始したのが鈴木エドワードでした。
現ESA共同代表、Edwardの妻・高橋Suzuki百合子が環境ビジネスを起業した1990年をさかのぼる28年前、1972年「東京ウッドストックホルム・人間環境ロックフェスティバル」@日比谷野外音楽堂を主催し成功をおさめたのです。
環境会議が開かれたストックホルム、そして頭には1969年に開かれ40万人を集めた野外コンサート「ウッドストック・フェスティバル」(ニューヨーク州)を掛け合わせた造語「ウッドストックホルム」。鈴木の語呂合わせやおやじギャグはすでにこの頃からだったのです。

鈴木エドワードの行動力で、当時大人気を誇ったロックバンド5組、内田裕也、ミッキーカーチス、ジョー山中などにノーギャラで出演を快諾してもらったそうです。この収益金は、水俣病患者に役立てようと申し出たのですが、なんと、「君たちのような若者(不良)に水俣病を利用されたくない」と断られたというのです。当時のロックは、日本ではまさに「不良」の烙印を押される音楽でした。

しかし、2017年、ずっと大切にとっておいたこの大切な寄金を無事に手渡すことができました。鈴木は長い間のつかえがとれたことでしょう。
1970年代、水俣病の惨状を取材し世界に配信したアメリカ人写真家ユージン・スミスの闘いを描きジョニー・デップが主演する『ミナマタ(映画)』(原題 : Minamata)が2020年公開。世界の環境問題の原点に注目が集まっている証でしょう。

現在の環境問題と同じ源、廃棄物の垂れ流しが起こした悲惨な出来事、ここに目を向けた鈴木の社会に向けた問題意識はさすがというしかありません。
その鈴木が、その後ハーバード大学院を経て、イサム・ノグチの推薦により丹下健三氏に嘱望され同事務所に勤務、のち、独立し現在の事務所を立ち上げました。
鈴木が当初からめざしたのは、日本の伝統的なサスティナビリティ建築を現代に生かすことでした。メカニックに頼るのではなく、自然に学び、自然を生かす。夏は涼しく、冬はあたたかく…を、建物の仕組みから考えようという姿勢は、鈴木エドワード事務所設立から現在に至るまで、確固たる意志として、ESA所員にもずっと貫かれているものです。

現在の共同代表高橋Suzuki百合子は、ESAと共に、「ひとりひとりの暮らしから、快適なサスティナブル社会をつくる」をミッションとするE.OCT株式会社のCEOを務めています。